大津波警報よりも地震・・・『緊急放送』で命守れたか?(2021年3月11日)

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『3.11から明日へ』多くの命が奪われたあの日、テレビに何ができて、何ができなかったのか。3.11の教訓を、あすの“防災・減災”に少しでも生かすために改めて検証します。

多くの被害をもたらしたのが巨大な津波でした。

宮城県・女川町。かつてそこには、1万人が暮らす街がありました。商店や住居が立ち並ぶ小さな港で町で、人々の生活は、海とともにありました。サンマの水揚げ量は、国内屈指を誇ります。町をあげての“サンマ祭り”を行えば、隣町まで渋滞ができるほどでした。観光の中心は水族館や魚市場が入る『マリンパル女川』。獲れたての海の幸が並ぶ市場は、地元の人や観光客で溢れていました。そのマリンパル女川の屋上から、震災の1年前に撮影された映像があります。チリ地震による津波です。映像を撮影したのは、マリンパル女川で働いていた原吉憲さん。当初、1メートルから3メートルの津波予想が出されましたが、水が来たのは、ひざ下ほどまででした。2011年3月11日、原さんは、再び同じ場所に避難しました。第一報の津波の高さ予想は6メートルでした。わずか4分後、女川町には、14.8メートルの津波が襲来。死者・行方不明者は合わせて872人に上ります。町の9割近い住宅が被害にあい、原さんの親戚3人も亡くなりました。
地理地震による津波を撮影した原吉憲さん:「前年(のチリ地震)は、1メートルと言いながらも、何十センチの世界だから、今回も半分くらいかなと、低いのではないかと。来ても2、3メートルじゃないかという感覚だった。内心、過小評価していた。『とにかく高い所に逃げてください。何メートルだから安全』と言い切れる人はいないと思う。とにかく自分の逃げる、生き延びるという意識を高めていかないと」

福島県相馬市の松川浦は、県内一の海苔の産地です。独特の地形にある湾の中には、海苔を養殖するための“海苔棚”がびっしりと並んでいました。海苔の養殖を営んでいた只野勝さんは、松川浦の日常を日記に綴っていました。そこには『6時より、海苔獲り』『着替えて新聞見て昼食、雅子と』などと記されていました。あの日、海苔棚が並ぶ湾の中にまで、津波は押し寄せてきました。2万を超える海苔棚はすべて流され、町も、大部分が飲み込まれてしまいました。自宅にいた勝さんも津波の犠牲になりました。
只野勝さんの娘・雅子さん:「お父さんが、大黒柱だったから。『お父さん、お父さん』でいた娘ですので、お父さんが一番、悔やまれる。ここに来ると何で死んだのと、いつも思う」

岩手県陸前高田市の『奇跡の一本松』。もともと、その周りには、7万本の松が生い茂っていました。陸前高田市民の誇り『高田松原』です。太陽が降り注ぐ浜辺は、多くの人の笑顔であふれていました。小山芳弘さんは、震災前から、高田松原を守る活動をしてきました。
『高田松原を守る会』小山芳弘さん:「木の間から見る海の景色だったり、得も言われぬ美しさだった」
津波は、松原、そして町を飲み込みました。死者・行方不明者は合わせて1808人に上ります。陸前高田は、元の姿を失ってしまいました。小山さんは、奇跡の一本松に、一人、活性剤をまく日々。そんななか、地元の女性が、小山さんたちに声を掛けました。
新沼孝子さん:「高田松原を散歩していた。あまりにも綺麗なので、(高田松原の種)を取っていた」
命を受け継ぐ、高田松原の種。希望の芽は10年後、浜辺に戻ってきます。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp

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